2026年8月5日(水)、横浜みなとみらいホール小ホール(横浜市西区)で開催された「第59回カワイピアノコンクール」全国大会ソロ部門Sコースにおいて大賞を受賞された李礎安さん。台湾から出場し、最高位に立ちました。今回は同コンクールをはじめ、これから音楽コンクールに挑戦する方に向けてお話を伺いました。
取材・文|編集部
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プロフィール
李 礎安(Lee Chu-An)
台湾出身 / 国立台北芸術大学 修士課程3年在学
6歳よりピアノを始める。汪奕聞(Evan Wong)氏に師事。
趣味・特技
練習で行き詰まったときは、あえて鍵盤から離れる。軽い運動をしたり、映画を観たり、ゲームをしたり。頭をいったんリセットする時間を、問題を解くための大切な過程だと考えている。
主な受賞歴
浜松PIARAピアノコンクール
2015年 台湾予選 第1位
全国学生音楽コンクール(台湾)
2017年 花蓮地区 高校B部門(ピアノ)第1位(優等)/2018年 花蓮地区 高校B部門(作曲)第1位
WPTA(世界ピアノ指導者協会)ピアノコンクール台湾
2021年 大学部門A 第1位
関渡新聲コンクール(国立台北芸術大学)
2024年 ピアノ独奏部門 優勝、受賞者コンサートに出演
第59回カワイピアノコンクール(2026年度)
全国大会 ソロ部門Sコース 大賞
第59回カワイピアノコンクールを終えて
──コンクール、お疲れさまでした!受賞を知った瞬間のお気持ちと、終えた今のお気持ちをお聞かせください。
李礎安
正直に言うと、結果が発表された瞬間、頭が真っ白になりました。とても嬉しかったのですが、同時に信じられない気持ちでした。あの舞台に立っていた方々は本当に素晴らしくて、現実のこととは思えなかったのです。
でも最初の衝撃が過ぎたあと、不思議な静けさが訪れました。大喜びするというのではなく、ただ深く息を吸って自分に「落ち着いて、この瞬間を受けとめよう」と言い聞かせていました。「本当に、起こったんだ」という感じです。
眠れなかった夜も数え切れないほどの練習の時間も、そのすべてが急に報われたように思えました。積み重ねてきたものが自分をここまで運んでくれたのだと気づきました。静かで、いい時間でした。
──なぜこのコンクールに挑戦しようと思われましたか?
李礎安
もともとカワイのピアノが個人的にとても好きだったのです。あのタッチと独特の音色が本当に好きで。自分が心から弾きたいと思える楽器で競うことができたのは、この経験を特別なものにしてくれました。
カワイは規模の大小を問わず、たくさんのコンクールを開催しています。これほどよく運営された大会に参加する機会を得られたことを本当に嬉しく思っています。
──課題曲・自由曲と、それぞれの選曲理由を教えてください。
李礎安
本選ではバッハの前奏曲とフーガ 嬰ニ短調 BWV877と、ラフマニノフの「コレルリの主題による変奏曲」op.42を演奏しました。
この2曲は私にとって特別な作品です。このコンクールのために用意したものではありません。これまで数え切れないほどの演奏会や試験をともにしてきた、私の「魂の曲(soul songs)」なのです。
深く知り尽くしている曲だからこそ、舞台の上でも安心していられました。技術ではなく音楽そのものに集中することができたのです。
まったく異なる時代とスタイルに属するこの2つの作品が、ひとつのプログラムのなかでこれほど響き合うということに私はずっと惹かれてきました。バッハの厳格な構造とラフマニノフの劇的で感情的な強度を組み合わせるのはやりがいのある挑戦でしたし、この2つのまったく違う音楽的な人格を聴衆と分かち合えたことをとても嬉しく思っています。
──課題曲のバッハで、特に大切にされたことは何でしたか?
李礎安
一見シンプルに見える表面の下に隠れた、緻密なディテールをすくい上げることでした。
いちばんの難しさは、間違いなく声部の描き分けです。それぞれ独立した声を明確に扱いながら、同時にその複雑な関係性を保たなければならない。すべての線がテクスチュアのなかに埋もれることなく、それぞれの性格と色を持つようにする。これは繊細なバランスの作業です。
とくにフーガでは、その硬質で学問的な構造に息を吹き込むことを目指しました。フーガの書法は、ときに堅苦しく理屈っぽく感じられてしまうことがあります。だからこそ私は、独立した声部をひとつのまとまった音楽の物語へとつなぐことに力を注ぎました。
技術的なパターンの連なりではなく、生きて呼吸している物語として感じられるかどうか。そこに最大の難しさがあり、同時にいちばんの達成感がありました。
──本選では、特にどのようなことを表現したいとお考えでしたか?
李礎安
実は、変奏曲という形式が私のいちばん好きな音楽の形なのです。一見単純な主題を作曲家がゆっくりと展開させ、輝かしい場面へと育てていく。そのことに強く惹かれます。
本選では、この変奏曲ならではの性質を使って音楽の多様さについての自分の考えを表現したいと思いました。ラフマニノフの「コレルリの主題による変奏曲」は、まさにその好例です。「ラ・フォリア」という核となる旋律を20の変奏を通して変容させ、繊細な織物のような場面から力強く劇的な頂点へと運んでいきます。
音楽はひとつのものではない。根を保ったまま、まったく違う人格へと変わっていける。バッハの前奏曲とフーガにも、私が愛している同じような展開と構造の感覚があります。
この2曲を演奏することで、ひとつの単純な発想がこれほど多様で色彩豊かなものへ育っていく興奮を、聴いてくださる方にも感じていただけたらと思っていました。
──コンクール準備期間について教えてください。
李礎安
私にとって準備とは、厳格なマラソンのような練習時間よりも意識して一定のリズムを保つことです。ふだんは1日に2〜4時間、集中した練習にあてています。日によって予定は変わりますが、学生ですので残りの時間は学校の時間割と授業に沿って流れていきます。
ただ、ピアニストとしての成長は鍵盤の前にいるときだけに起こるものではないと思っています。
私の準備は、ひとりの練習を超えて自分を音楽で取り囲むことに大きく支えられています。演奏会に足を運ぶことは、私にとって最も大切な学びのひとつです。さまざまな解釈、音色、舞台での在り方を吸収することができます。さらに、教授や仲間たちと深く語り合うことが、複雑な音楽の構造を解きほぐし自分の表現を磨く助けになっています。
ひとりで黙々と積み重ねる時間と、こうした広い意味での文化への浸り方。その両方のバランスが、私にとって本当の意味での準備のリズムです。
──練習をするにあたって、どのようなことに気を付けましたか?
李礎安
難しい箇所がどうしてもうまくいかないとき、私がまずするのは力を入れることではなく、一歩下がることです。
たいていは練習をやめて、深呼吸をして、意識的に心と体をゆるめます。緊張はさらなるミスを生むだけだと学んできたからです。
私にとっては、ピアノから離れて気晴らしをすることも、問題を解くために欠かせない時間です。軽い運動をする、映画を観る、ゲームをする。そうした時間が脳をリセットしてくれて、音楽上の課題を知らないうちに整理してくれるのです。すっきりした頭で鍵盤の前に戻ると、解決の糸口がずっと見えやすくなっています。
そして、行き詰まったときにはいつも教授や友人たちが支えてくれます。それが本当にありがたいのです。彼らの忍耐強さ、新しい視点、導きがあるからこそ、技術的な壁も自信を持って越えていけます。
──本番当日のお気持ちをお聞かせください。
李礎安
本選の日も、できるだけ普通の一日と同じように過ごそうとしました。いつもと違うことをして、自分に余計なプレッシャーをかけたくなかったのです。
唯一違ったのは、会場までかなりの距離を歩かなければならなかったこと。私はその歩く時間を活かしました。頭のなかで音楽を何度も何度も繰り返し、細部や移り変わりのひとつひとつに意識を向けたのです。
舞台という強い緊張のなかでも自動的に、そして自由に弾けるくらい音楽を深く自分に染み込ませておく。それが目標でした。
舞台に上がる直前の緊張への対処については、秘訣のようなものはありません。ただ袖に立って、深く息をするだけです。それが自分を地に足のついた状態に戻してくれて、手の震えを抑えてくれます。
──日本のコンクールとのご縁は、10年ほど前にさかのぼるそうですね。
李礎安
正直なところ、2015年に浜松PIARAピアノコンクールの台湾予選に出たときはまだかなり幼い頃でした。最初に心を惹かれたのは単純に日本のコンクールの評判の高さでした。緻密に運営されていて、演奏者を本当に大切にする質の高い環境がある。そういう評判です。
台湾で行われた予選でしたし、当時は個人的な予定もあり、日本での本選に足を運ぶことは叶いませんでした。それでも、あの経験はずっと心に残っていました。
ですから今年カワイ音楽コンクールで横浜みなとみらいホールの舞台にようやく立ったときは、信じられないほど特別な気持ちになりました。ただ競うということではなく、10年前に始めた旅をようやく完結させられたように感じたのです。10年を経てもう一度日本のコンクールとつながることができた。それは私にとって意味のある「一周まわって戻ってきた瞬間」でした。
──カワイピアノコンクールに挑戦する方へのメッセージをお願いします。
李礎安
ひとつだけ伝えるとすれば、ただ自分を信じてくださいということです。緊張するのはまったく当たり前のこと。でも一度舞台に足を踏み入れたら、自分が積み重ねてきた数え切れない時間を信じてください。
それ以上に大事なのは、コンクールを勝ち負けとして見ないようにすることです。音楽の旅においては、挫折や失敗のほうがすぐに手にした成功よりもはるかに多くを教えてくれます。挫折は自分を省み、技術を磨き直し、より深い精神的な粘り強さを見つけることを促してくれます。
勝っても負けても、いちばん大切なのは音楽への愛を守りつづけることです。あなたの情熱が演奏を通して輝くように。そして舞台を、裁かれる場所ではなく自分の声を聴衆と分かち合う美しい機会として捉えてください。
──今後の目標、将来の夢などをお聞かせください。
李礎安
これからの目標は、コンクールに出ることだけではありません。もちろんそれも大切ですが、いま楽しみにしているのは、室内楽や合唱との共演といったさまざまな形の共同作業を通じて音楽の視野を広げていくことです。人とともに音楽をつくることが新しい洞察を与えてくれて、より豊かな音楽家へと育ててくれると信じています。
そしてソロのレパートリーについては、バッハの作品にもっと深く分け入っていきたいと思っています。バッハの音楽は本当に難しく、なかでも声部を描き分け、複雑な構造を立ち上げるところが大きな課題です。でもだからこそ、もっと時間をかけたいのです。バッハを自分のものにできれば、ほかのすべての作品を弾くうえで技術的にも感情的にも強い土台になるはずです。
インタビューを終えて──編集後記
李さんが本選で弾いたのは、このコンクールのために用意した曲ではありませんでした。数え切れないほどの演奏会や試験をともにしてきた、「魂の曲」と呼ぶ2曲です。深く知り尽くしているからこそ舞台でも安心していられた、というお話が印象に残ります。
弾けない箇所にぶつかったら、力を入れずに一歩下がる。そう率直に語りながら、支えてくれる教授や友人への感謝を欠かさない方でした。
10年前、浜松PIARAピアノコンクールで第1位を得ながら、日本での本選の舞台に立つことは叶わなかったといいます。その旅が、今年ようやく完結しました。いただいたお写真には、8歳の李さんがピアノに向かう1枚が。あの日の少年が、10年以上を経て、横浜の舞台に立ったのです。
「コンクールを勝ち負けとして見ないでほしい」。挫折のほうが多くを教えてくれる、と伝えてくれました。李礎安さんのこれからの歩みを、心から応援しております。
このたびは貴重なお話をありがとうございました。
第59回カワイピアノコンクールの概要については下記をご覧ください
第59回カワイピアノコンクールの結果については下記をご覧ください





