「目が歌う」とき、舞台で特別なことが起こる ── クリスティアン・グラセスが語る、審査員が聴く二つのこと:東京国際合唱コンクール in HARUMI を終えて

グラセス先生アイキャッチ

ベネズエラに生まれ、15歳の頃に出会った一人の指揮者の姿に惹かれて合唱の世界へ入ったクリスティアン・グラセスさん。ホセ・アントニオ・アブレウ博士のもとでエル・システマの合唱部門を統括し、現在は南カリフォルニア大学ソーントン音楽院で次世代の指揮者を育てています。

第8回東京国際合唱コンクール in HARUMI の審査を終えた先生に、審査員として何を聴いていたのか、限られた練習時間で何を優先すべきか、そして「技術的に上手い」の先にあるものについて伺いました。

恩師たちから受け継いだ五つの原則、そして「目が歌う」という言葉。合唱に携わるすべての方へ贈る、先生の実践的で率直なメッセージをお届けします。


取材・文|編集部

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プロフィール

グラセスさん.

クリスティアン・グラセス(Cristian Grases)Instagram YouTube ※公式サイトは制作中
指揮者・作曲家

略歴: ベネズエラ生まれ。カラカスのシモン・ボリバル大学で修士号、マイアミ大学で博士号を取得。ホセ・アントニオ・アブレウ博士のもとでエル・システマの合唱部門全国コーディネーターを務めたのち、2010年に南カリフォルニア大学(USC)ソーントン音楽院へ。クラシック演奏・作曲部門の副学部長を3年務め、現在は合唱音楽教授、USCソーントン・チェンバー・シンガーズ指揮者、合唱音楽学科長。

【音楽の歩み】
12歳頃からピアノを学ぶ。15歳の頃、クリスマスの合唱祭で指揮するアルベルト・グラウの姿に惹かれ、3か月後にはその合唱団へ。今日まで続く師弟関係の始まりだった。もう一人の恩師マリア・ギナンドにも学び、修士課程では両氏に指揮を師事。

「人と共に演奏することで、安心して落ち着いていられました。ソロのピアノ演奏では、とても緊張していましたから。合唱団と一緒に演奏を準備していく、そのチームとしての営みと仲間意識にも惹かれたのです」

アイキャッチ・プロフィール写真:Photo by ManLok Fung / MLFoto.HK

作曲活動: 受賞歴のある作曲家として、ロサンゼルス・マスター・コラール、サンタフェ・デザート・コラール、ORAシンガーズなど数々の名門団体から作品を委嘱されている。2013年にはジェントリー・パブリケーションズより「ラテンアメリカ・カリブの合唱音楽」と題した合唱シリーズを立ち上げ、ラテンアメリカのレパートリーを世界に紹介している。

国際的な活動: 南北アメリカ、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアで客演指揮者、審査員、指導者として活動。デンマーク、アルゼンチン、韓国の世界合唱シンポジウムで登壇し、ソルトレイクシティのACDA全国大会では全米ラテンアメリカ栄誉合唱団を指揮した。2008年に国際合唱連合(IFCM)理事に選出され、2020年まで副会長としてラテンアメリカ・カリブ地域を代表した。

趣味・特技など
音楽に関わる趣味としてクラリネットの演奏、そして現在サックスを習得中。音楽以外では、チェス、読書、ハイキングと運動を楽しんでいる。

第8回東京国際合唱コンクール in HARUMI を終えて

審査員の先生方
第8回東京国際合唱コンクール in HARUMI の審査員の皆さま(右からお2人目がグラセス先生):ⓒ長谷川恭子


──第8回東京国際合唱コンクール in HARUMI の審査を終えてのご感想と、全体としてのレベルについての印象をお聞かせください。

クリスティアン・グラセス
TICCは素晴らしい合唱団が集まるコンクールとして知られています。ただ、私の知るどのコンクールでもそうであるように、合唱団のレベルは一様ではありません。

今回も、非常に優れた合唱団による見事な演奏があり、成長途上のアンサンブルがあり、そしてその中間に位置する団体も相当数ありました。経験豊かな指揮者と、将来有望な若い指揮者の両方がいました。課題曲の演奏も、実によく練り上げられたものを聴くことができました。全体として、レベルは高かったと思います。

──東京国際合唱コンクールならではの強みや魅力は、どのような点にあるとお考えですか。

クリスティアン・グラセス
各部門のために作曲家に新作を委嘱するという、このコンクールの姿勢に拍手を送ります。幼い子どもたちの合唱団やシニア合唱団といった部門を設けていることも、称賛に値します。こうした部門は、その国の合唱界が全体として健やかに発展していくために欠かせないものです。

さらに、作曲コンクールの入賞作品を舞台で紹介していることは、新しいレパートリーへの真摯な姿勢の表明であり、見事というほかありません。ブラボー。

──審査では、どの点を最も注意深く聴かれましたか。ブレンド、音程、言葉の扱いのうち、比重が大きいのはどれでしょう。

クリスティアン・グラセス
合唱の演奏には、二つの本質的な資質があると考えています。第一に音程です。合唱団は正しい音程で歌えなければなりません。第二に舞台での演奏そのもの、つまり聴衆とつながることができるかどうかです。

この二つはいずれも、技術と創造性、そして継続的で効果的な練習の積み重ねによって支えられています。この二点に注目すれば、そのアンサンブルについて多くのことが分かります。


──ベネズエラではエル・システマの合唱部門を統括され、現在はUSCで次世代の指揮者を育成されています。ご自身の音楽家としての歩みと、その中心にあり続けてきたものはどんなものですか。

グラセス先
Photo by ManLok Fung / MLFoto.HK

クリスティアン・グラセス
指揮を始めたのは18歳のときでした。30年余りの指導の中で、多くの歌い手と若い指揮者に接してきました。私の教えの根底には常に、恩師たちから授けられた合唱の本質的な価値観があります。その原則をいくつか挙げてみましょう。

一つ目は、音楽が常に最優先されるということ。私たちは音楽に仕える者です。
二つ目は、常により良くあろうと自らに挑み続けること。この芸術を極めたと思うなら、別のことをした方がいい。
三つ目は、技術は目的を持った練習によって培われるということ。ピアニストが毎日音階を練習するように、指揮者もまた同じ規律をもって、指揮の型と技術を練習しなければなりません。
四つ目は、作曲家が何を語ろうとしているのかを理解し、それを聴衆が受け取れる形に翻訳すること。
五つ目は、その音楽を理解していなければ、正しく演奏することはできないということ。音楽を自らの一部とし、それが自分の内に宿ったとき、初めてそれを伝える可能性が生まれます。

──審査で大切にされていること、そして講評を書くときに心がけていることを教えてください。

クリスティアン・グラセス
どの合唱団もそれぞれに異なります。講評を書くときは、最も早く、最も大きな効果をもたらしうる点に絞るようにしています。よく書くのは、次のような内容です。

1.レパートリーの選び方に気をつけること。難しい曲を選んだからといって、演奏が優れたものになるとは限りません。曲が難しすぎれば、そのアンサンブルは演奏しているのではなく、ただその曲に振り回されているだけになってしまいます。

2.フレージングは演奏においてきわめて重要です。方向性のない音の連なりを並べるだけでは、聴衆とつながる機会を逃してしまいます。

3.演奏を通して物語を語ること。心に一つの情景を思い描き、それを音で描き出そうとしてください。

4.音程と音の色に注意を払うこと。音を作り出すこと自体が本質です。

5.プログラムに対比があることも重要です。聴衆の注意を失えば、音楽の営みの本質的な部分が失われることを忘れないでください。

6.舞台での存在感は決定的です。技術的に完璧でも感情のない演奏は、もはや完璧ではありません。


──技術的に優れているというだけでは届かない、審査員として心に残る演奏とはどのようなものでしょうか。

グラセス先生
ⓒ長谷川恭子

クリスティアン・グラセス
どの作品も、物語を語る機会です。合唱団のひとりひとり、指揮者もピアニストも含めて、それぞれが異なる物語を、あるいは異なる情景を心に抱いているかもしれません。

記憶に残る演奏では、たいていアンサンブルの全員が、音楽を用いて物語を伝えようとしています。それは目を見れば分かります。目が「歌う」とき、舞台の上で何か特別なことが起こるのです。

──限られた練習時間の中で、合唱団は何を優先すべきでしょうか。良い練習とはどのようなものですか。

クリスティアン・グラセス
練習とは、進行中の演奏です。
理想を言えば、練習時間が少なければ少ないほど、集団としての物語の語りに集中しなければなりません。音色や音程、パート間のバランス、全体としてのフレージング、全体としての物語の語り──つまり歌い手が一人ではできないことのすべてが優先されます。

ですから、練習時間が少なければ少ないほど、歌い手一人ひとりが自分のパートをより深く準備しておく必要があるのです。

──東京国際合唱コンクールでは日本の作曲家の新作が課題曲になります。作曲家でもある先生から見て、合唱団が書き下ろされたばかりの作品に取り組むとき、何が最も大切でしょうか。

クリスティアン・グラセス
歌詞と、それを作曲家がどのように音楽にしたかを研究することを通じて、指揮者の主たる目標は作曲家の意図を理解することにあります。

なぜこのように書いたのか。作曲家にとって何が重要だと思われるのか。どの言葉が強調されているのか。作曲家が語ろうとしている全体の「物語」は何だと指揮者は考えるのか。

国際的なアンサンブルが日本の新作に取り組むということは、日本の文化をより深く知る機会になると思います。

──特定の土地や民族から生まれた音楽が国際コンクールで歌われるとき、どのように受け止め、評価されますか。

クリスティアン・グラセス
演奏には普遍的な技術の側面があります。それについては先ほどもお話ししました。

国際的な審査員として、私は他の文化からできる限り多くを学び、それぞれの本質を理解しようと努めています。そうすることで、作品そのものと、その演奏を、より正確に受け取ることができるようになります。

リズミカルなラテンアメリカの歌、明るい響きの東欧の歌、イングランドのルネサンス期のマドリガル、そしてマオリのハカは、舞台上でまったく異なる響きを持ちます。それぞれのジャンルの美学を理解することを通じてこそ、私たち審査員は正確に、そして感受性をもって評価することができるのです。

──最後に、東京国際合唱コンクールへの参加を検討されている方、そして合唱を愛するすべての方へメッセージをお願いします。

審査員の先生方
写真提供:クリスティアン・グラセス

クリスティアン・グラセス
最高の水準で演奏することを目指すアンサンブルにとって、ここは傑出した舞台です。会場そのものが素晴らしく、審査員は常に最高の顔ぶれで、参加する合唱団は興味深いレパートリーを見事に演奏することに心を注いでいます。

あなたのアンサンブルをTICCに連れてくることは、その音楽性の成長を確かなものにするでしょう。

インタビューを終えて──編集後記


グラセス先生の言葉には、装飾がありません。音程と、聴衆とつながること。合唱の演奏を支えるものを二つに絞って示されたとき、その簡潔さに驚きました。けれどその二つを本当に満たすには、技術も創造性も、日々の積み重ねもすべて必要になるのだと、続く言葉を読んで気づかされます。

15歳の頃、クリスマスの合唱祭で一人の指揮者に出会った少年が、3か月後にその合唱団の一員となり、今は自らが次の世代を育てている。恩師から授かった五つの原則を惜しみなく書き記してくださったことに、その連なりを感じました。音楽は人から人へ手渡されていくのだと、改めて思います。

とりわけ心に残ったのは、「目が歌う」という言葉でした。歌っているのは声だけではない。舞台の上でその人が何を見つめ、何を伝えようとしているのか。それは客席から、確かに見えてしまうものなのでしょう。

技術を磨くことと、物語を語ること。そのどちらも手放さずにいたい──そう思わせてくれるお話でした。クリスティアン・グラセス先生、お忙しいなか、率直で温かなお言葉を本当にありがとうございました。

グラセス先生
写真提供:クリスティアン・グラセス

第8回東京国際合唱コンクール in HARUMI の概要については下記をご覧ください

第8回東京国際合唱コンクール in HARUMI の審査結果については下記をご覧ください